『新潮45』が休刊しました。同誌に掲載された記事が、人々から批判されたことが原因のようです。記事の内容についてのコメントは差し控えたいと思いますが、この一件で考えさせられたことがあります。
インターネットが発達し、最近では誰でも自由に自らの意見を発信することができるようになりました。「インスタ映え」などと言って、おいしそうな食べ物や美しい景色などを掲載することは、発信する方も、受け手の側も楽しい気分になります。しかし、同時に、根も葉もないいい加減な情報や、個人や多くの人々を傷つけるような情報も氾濫するようになりました。
日本では言論の自由が保障されています。自分の意見を自由に述べる権利が保障されています。だから何を言っても許されるのでしょうか。私たちは、自分が発信した情報によって傷つく人がいるのではないかということに心を配るべきではないでしょうか。私たちには言論の自由という権利とともに、他人、特に世間的に弱い立場の人々を守るという義務もあると思います。
そのことは十分に理解し配慮をしているつもりでも、コミュニケーションが専門でない多くの人々にとっては、気づかないままに誰かを傷つけてしまうこともあるかもしれません。これがインターネットの怖さです。
一方で、メディアに携わる人たちは、若いころから先輩たちに鍛えられ、多少の失敗をしながらも経験を積み、自分の扱う情報の怖さを十分に理解できているはずです。情報の内容ばかりでなく、読点の位置を少し変えるだけで大きく意味が変わることがある、ということも学んできたはずです。そのようなことを学びながらジャーナリストとして、編集者として、専門家になっていくのだろうと思います。
インターネットの発達にともない、既存の新聞や雑誌の販売部数は落ちてきていて、各社、各編集部共に、苦戦を強いられていることでしょう。読者は過激な記事を好みますから、少しくらい人を傷つけることがあっても過激な記事を掲載し売り上げを伸ばす、という考えの編集者もいるのかもしれません。しかし、それは決して許されることではありません。
メディアの専門家として、きちんと取材し裏付けの取れた記事で正々堂々と勝負すべきだと考えますが、高いプロ意識と誇りをもった人たちが少なくなってしまったことも事実のように思います。残念なことです。
もちろん、各社、各紙(誌)、主義主張、方針があっていいと思います。モノゴトは一つの方向からでは十分に見えないことがあります。答えが一つでない場合も多々あります。違った見方をしている複数のメディアから得た情報によって、私たちは自分なりに考えることができます。自分なりの結論に達することができます。
しかし、いずれの場合も、プロとしてきちんと精査した情報を発信してもらいたい。過激さではなく、情報の正確さ、見識の高さで信頼を得て、売れる雑誌を目指してもらいたい。一人の編集者として、そのように望みます。それがメディアの責任だと思います。
nf528主宰 二神 典子