基本を学ぶところから始めよう

東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会会長の森喜朗氏が女性差別発言によって同会長を辞任することになりました。日本における女性差別が大きくクローズアップされ、テレビ、新聞、インターネットなどのメディアで盛んに男女平等について取り上げられています。しかし、これらの議論を聴いていると、本当に本質がわかっているのかな、と思える発言がたくさんあります。
森氏は辞任表明の中で「私自身は女性差別をしたつもりはない。これまでも理事会では女性に発言をしてもらうようにしてきました」というような話をされました。この発言が、今、日本の抱えている女性差別の問題の本質を表していると思いました。
誰も意図的に差別をしているわけではないのです。どのような発言が、どのような行動が差別になるのかの理解ができていないのです。
個人的な経験を申し上げますと、カメラを持って取材に出始めた頃、「女の人が取材に来るようになったんだ。時代は変わったね」と言われたことがあります。かかってきた電話に出たらいきなり「誰か男の人に代わって」と言われたことがありました。編集長になったときには「ぼくたちの大事な雑誌の編集長が女か」とおっしゃった方も少なくなかったようです。私自身はそれらの言葉に何も反応をしませんでした。「結果で勝負する」と思っていたからです。
私と同世代または少し上の世代の女性たちは、そんな男社会の中で努力し経験を積み、男性にも能力を認めさせてきたのだと思います。顔は柔らかく微笑んで、心の中で闘い、今の地位を勝ち取ってきたのです。しかし、そんな女性たちの強さが裏目に出て、今でも多くの男性が、ジェンダーの問題、課題に気づけないでいるのだと思います。
今回、森氏の女性蔑視発言を世界中からたたかれ「後任は女性に」という声が上がっていますが、これも立派な女性差別。男女平等にそれぞれ一人ずつの2人体制でという意見もありますが、これも女性差別だと思います。
そうおっしゃっている方が決して女性を低く見ているわけではないのは理解しています。ジェンダー差別がないということは、性別的な前提がないということです。個人の経験や能力を検討した結果がたまたま男性なのか、女性なのかということであって、どちらでも構わないのです。
男性、女性一人ずつを選んだ場合、女性差別という前提がない状況であれば理想的なようにも思えますが、いまの状況では女性一人では無理だと判断して男性をつけたと取られかねません。
「ジェンダー差別がないということは、性別的な前提がないということ」と書きましたが、その女性がリーダーとしてどのくらいの能力が発揮できるかの実績がほとんどない状態で男女比関係なく役員や理事を選ぶとなると、男性に偏ってしまうのは当然の結果だと思います。とりあえずは、30%、40%、50%と意識的、段階的に女性の割合を増やしていくのが現実的な路線なのでしょう。
「差別」は何もジェンダーだけではありません。さまざまな分野で「差別」という課題はあると思います。まずはそれぞれの分野で何が差別なのか、何が本当の意味での平等なのか、基本的なことを学ぶことから始めましょう。差別克服への道のりは長いですが、時間はありません。

nf528主宰 二神 典子